落ちている時、楽になった言葉
Powerd byGATAG
落ちていた自分と、もしかして同じ所に居て苦しいと思っている人へ、バトンのつもりで紹介したい。
少し前に私自身に起こっていたこと。
自分が落ちているな、と思っていた。
そして、その落ちている状態を、自分で思っているよりもずっと、実は、許していなくて、さらに焦っていた。
そのこと自体が、分からなくなっていた。自分では見えなかった。
で、そこから、この一言を読んで、本当にすっと、ベクトルが変わった。
この文章を目にしたのは本当にたまたまだった。
日本で第一人者のヨーガ行者、成瀬先生の講演を2月に聞いていた。
その圧倒的な存在の素敵さに、こんな人が居るんだ、すごいな、と思っていた。
それを覚えていたところに、ふと見かけた記事だったので、思わずクリックした。
そしたら、こう書いてあった。
人生では誰でも大失敗をしたり、人の悪意によって理不尽な目に遭わされたりすることがあるでしょう。
そういうとき、多くの人は、元の状態に上がっていこうと必死でもがきますが、ヨーガでは「落ち込んだここから這い上がるのではなく、もうちょっと落ちてみよう」と考えます。
「また上がるぞ」と頑張ると、力が入り、視野が狭くなります。そこで焦って、悪い選択肢に飛びついてしまう。
逆に「もう少し落ちてもいい」と決めれば、リラックスでき、視野が広がって、状況をしっかり把握できるようになる。そうやって流れに身を任せていると、思いもよらなかった道が開けてくるものです。
もうちょっと、落ちてみよう。
この一言で、全身の力のベクトルが、180度変わった。
そうだ、落ちてみよう。
力が、抜けた。
落ちてみよう。
私、もうちょっと、落ちてもいい。
まだ、落ちていい。
そうなった時、自分が、このままでは溺れそうだから、と必死でもがいていたことを知った。
「溺れた時、力をいれてもがくと、おぼれ死ぬ。でも力を抜くと、浮かぶ。だから溺れた時は全身の力を抜いて下さい」と海に入る時に教わった言葉が浮かぶ。
「そしてライフジャケットを着てるんだってことも思い出してね、簡単には死にませんから」
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人の体もエネルギーも経済も、おおよそ命あるように動くものは波形で動く。それが流れを生んでいる。
私は波がまだ最下部に到達する前に、落ちていく恐怖から、無意識にAへ進もうとしていた。でも、波はBへ行きたがっていた。もうちょっと落ちてみようという一言で、私は力みが抜けて、Bへと進んだ。
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クラニオセイクラルやオステオパシーといった、人の体の全体性を重んじるような人体への施術方法では、骨をほんの少しだけ曲がっている方にさらに押したりする。ホメオパシーでも毒に同じ毒の波動を掛ける。
そこに働いているのは、多分、同じ原理だ。行きたいのに、何かで止められていて動けないとき、そのエネルギーは拮抗して固まったようになる。
拮抗は葛藤と同じ方向性。何かがぶつかったままいる感じ。
自分の中で抵抗や、葛藤が起こっている時、自ずとエネルギーは前へ動かず、そこでとどまるようにしてある。
せき止めずに動かしてあげれば、自動的に、それそのものが、ちゃんと動く。
その方向に、行かせてやること。
それは、それをものを「許す、認める、承認する」という行為でもある。
この許す、認める、それをそのままいかせる、という事は、なかなか難しい。私のDNA要素には、まったくもってそれがないかのような難しさが私にはある。血の中にない。その方法をなかなかどうして、体は覚えない。
できるようになるまで、それは繰り返し何度だって、試すように、来る。
私はそれが来る度に、その度、息を止めて抵抗する癖がある。息を止めている事にもなかなか気が付かない。
そうだ、力を抜くんだった。
成瀬先生の、肉体を超越した軽さを持つ笑顔と、人生を掛けた言葉の深みから来る響きが私の拮抗ポイントに、響いた。
私はそこで力を抜いて、あと少し、その沈みゆく放物線を感じた。
今、楽になった→ヨーガでは「落ち込んだここから這い上がるのではなく、もうちょっと落ちてみよう」と考えます。むしろ「どん底は最高だ!」と喜びました。/「ヨーガ行者の王」成瀬雅春さんが教える「日々を楽しく生きるヒント」 https://t.co/WW02EehgPU
— mari & tomoco (@maritomoco) 2016年5月29日
この宇宙のどこにも「正しさ」が存在しないという事が証明されているとするなら、私たちは何に向かって行為を営んでいるんだろう?
飲茶という人が書いた哲学書のような読み物があります。
「哲学的な何か、あと科学とか」という本です。
面白さとはなにか
哲学好きはたまらないと思いますが、哲学に興味はそんなにない、という方にとっても、大変面白いと思います。
面白い、というのは、「あ、わかった!」という瞬間の、すべてが繋がってぷわわわーと物事が開けていく、あの面白さのことであります。
人は、分かりたい生き物ではないだろうか、と思います。そのために好奇心がデフォルトでインストールされているのではないかと思います。
分からなかったことが分かる、というのは、快楽の一種です。わかる、とは、体感を伴います。体が一回り広がるような解放感がうまれます。
わかる、とは、異物を体内にうまく摂取し、自分の体の一部にできた瞬間でもあるでしょう。食べ物を消化する快楽、他者と思いが共有できた快感。これらに共通する一体化はかなり高度な快楽です。それはもう至福と呼んで差し支えないでしょう。
理解する。理解し合う。この瞬間が訪れる読書という体験は、ですからどこかセクシーな話でもありますね。
さて。話は、冒頭の本に戻ります。
「世の中では難しいとされていることが、分かりやすく書いてある」
ご紹介するこの本はこういう本です。
哲学も、科学も、物理も、難解なものが多いです。
それぞれの分野において、学者のみなさんは、それぞれの方法でこの広い宇宙を解き明かそうとしていらっしゃる、ように思います。
解き明かす範囲が広すぎると、みなくちゃいけない範囲も広くなります。だからいつも、時間が足りないのだろうと思います。
物理や数学を使って、宇宙の果てまで考えてしまうような人たちにとっては、一語で広範囲を指し示すような、高い密度の言葉を使って思考しなければ、広大な空間の隅まで、いきている間に思考が到達しないのでしょう。
難しいこと、というのは、一文字に意味が詰まりすぎている状態。つまり圧縮されすぎ状態のことだと思います。
圧縮状態に慣れますと、解凍作業は不得意になります。
圧縮されていること、つまり難しい事って、解凍する、つまり丁寧に溶きほぐしながらひとつずつ考えると、そんなに難しいことは言っていないのですよね。
だけど、解凍の方法を伝えてくれる人は案外と少ないのです。
解凍の方法は、いいかえると、物事を自分で考える方法、ということもできると思います。
自分で考える、ということは、本当は一番学びたいことです。
物事を解凍できる人を私は天才と呼ぶのだと思っています。
※
この本は、難解な哲学や数学の証明の話を、読んだ人に分かるように書かれてあります。
多分、著者の頭の中は、かなり整然としているのだろうと思わせます。
解凍時、一歩一歩すすむ、その歩幅が、たいへんに、適切で、快適。
くどくなく、わからなくもなく、ついていける。
まずは著者の、飲茶さんのHPへ行くと、文章がたくさん掲載されています。
※
私が、この本に出会ったきっかっけも、飲茶さんのHPでありました。
シュレディンガーの猫について調べていたらこのHPがヒットして、その文章が面白くて、ふとみるとそれが出版されてあるってことだったんだんで、本を読んでみたというわけです。
ネットっていいなあと思いました。こういう風に、たまに置き手紙に出会う。
※
この本は、本を開いて、のっけっから「不完全性定理」で、はじまっています。
不完全性定理の結論は
「すべての理論は不完全。完全な理論なんかない」っていうことです。
この世のどんなことも、完全だ、と証明できる理論は存在しない、ということが証明されてしまっているという結論です。
ん??わかりづらい。
例えば
「僕は嘘つきだ」という言葉があります。
僕は嘘つきだ、といった僕が、嘘をついているのか、本当に嘘つきなのか。
この文章のはらむ意味を分けて考えていくと、真実も、ウソも、どっちも証明できないという結論にいたるんですよ、という話から始まっていきます。
つまり、完全はない=この世に絶対的な正しさはない=ということは、
この本で言われている内容が正しいかどうなのかってことだって、証明できないのよね
と言う暗喩からはじまっているように、その意味を取ることができるわけです。
わかるよーに説明しているある本が、正しいかどうかわからない。
あなたは何を信じるだろうか?
あなたはこのように、既に定義されている世の中を、さて、どうとらえるだろうか?
そんな意味を含む、素敵な出だしだと感じたのでした。
※
この話は、過去にも何度か読んだことがあったし、正しいことがない、ということは頭で知っているつもりでいたんですが、多分あまりにわかりやすかったせいもあって、これを読んでいて、腰が抜けていくというか、脱力していく自分がいたのでした。
自分が脱力するってのがまた、すごく意外でした。
「あれ、あれれれ、あれっ?」て思ったんですよ。
私の体は、正しさを愛していたんですね。
だから、それがない、って言われたときに、腰砕けた。
◆
私は本を好きでよく読みます。
その読む本のジャンルにはサイクルがあって、大体10年スパンで読む本のジャンルが変わっているということに最近気が付きました。
で、ここ10年のメインが、ビジネス書や自己啓発の本、精神世界やノウハウ本でした。
すごく苦手なこのジャンルを仕事で読み始めて、ミイラ取りがミイラになり、ほとんどそれしか読まない日々となりました。
(裏を返せば、この手の事をずっと読めるって、病んでたってことですね。心弱い10年だったんですな。)
で、これらのジャンルの本に共通していることは、読んでいると、「正解」が自分の外にあるような錯覚に落ちることです。
自分以外の外側に、正しい答えがある。
それは、宗教ということ、コントロールということと同義です。
ビジネス書はね、自分のルールを人に提示して、僕はこれで生きていますけれど、ご参考にどうぞ、という本です。
人の数だけ、自分の正解があります。それはそうです。で、人の正解は、あくまでも、参考です。
けれども、こういうものを読み続けると、誰かの出した答えが正しいと、いつの間にか思いこんでしまう所があります。まるで、催眠にかかるように。
人ひとりは、おのおのの価値観と信念を持って生きています。それが他の人と寸分たがわずに一緒である、ということは、ありえません。
なのに、読み続けると、自分がゆらいでしまう。正解がどこかにあるような錯覚に落ちいっていく。
ビジネス書マジック。自己啓発マジック。精神世界マジック。
本の内容なんて、大ぼら、かもしれないし、単なる大きなおせっかいかもしれないのにね。
本能的には、私は外側になど答えはない、と知ってるんだと思います。
でもなにか、甘い蜜のように誘って来る外側の答えにすがりたい私と
「そんなものは、ねえ!」と、言っている私で拮抗します。
10年も読んでいると、「外に正解のある感じ」が沁みこんでいることに、気が付きます。
読んだことは本当は全部、忘れてしまいたいぐらいです。知らなかった頃に戻りたい。
必要な情報なんてほんの少しでした。
でも快楽にそって大量に体に情報を入れてしまった。一度いれた情報は、なかなか、消えません。
他者の正しさを体に詰め込むほど、ほとんどが不要な情報を入れるほど、身体は重くなり、身動きが取れなくなります。そう感じます。
何のための正しさか。
そこに愛されるという行為があります。
私たちは学校で答えが外にある事を詰め込まれてきました。絶対の正解が、マークシートで選べる正解が、どこかにあるように刷り込まれています。
正しければ、まる。100点で、ほめられてちやほやされた、○がもらえた。
○という正解は愛情を貰うツール、認めてもらうツールでした。だからもらおうと必死になっていました。
でも、この本で「正しい」ってこと自体、証明されないんですけどね?って言っている。
過去の天才たちが考え抜いて「正しいこと」を証明できませんって言い切られている。
小さく、死にますね。いい意味で。
どんなに正しそうなこと言っている偉い人が居ても、すべてはその人の私小説である、というのは、私の言葉です。
哲学も、証明も論文も、ビジネス書も経済書も、百科事典でさえ、編者の私小説。その人だけの正解と世界の話です。
私は今、そうやって必死に正しさという呪文から逃れなおしているところです。
正さという呪文を丁寧に洗い流して、その奥に隠していた、自分の価値観と信念を洗い出そうとしています。
もともとね、誰かのいう事を聞くときに、100%受け入れることだ、とそもそも思っているふしがあります。聞くと受け入れるは別のことなのにね。
私は本が好きなので、著者はすべてすごい人だと思っており、本を書いている人を絶対視してしまう傾向があります。人は対等なのにね。
◆
では、正しさがないとするならば、私は正しさ以外のどこへ向えばいいのか?
正しさを指針に動いてきた私は、この先、どのように動いて行けばいいのか?
結論に入りたいと思います。
持つのは、正しさではなく、意図かな、と最近思っています。
意図とは何か?
意図っていうのは、目標でもなくて、ビジョンでもなくて、インスピレーションのように浮かんだ表現欲求って言うのが近いかもしれないです。
それが意図のイメージです。
今この瞬間に、表現されるもの。表現したいという欲求が生まれたらそれは意図。
こうしたい、こうなりたい、これがいいたい。この色を塗りたい。考える前に動く体や心。それが意図。
意図は、自分から持つようでもあり、同時に宇宙に持たされているとも言えます。
私を通して発露される宇宙、それが表現であり、意図です。
それが多分自分自身とか、本心とか、魂とか、そういうものに繋がることになるんじゃないか。今はそう考えています。
(加筆修正 5回目 2017/2/7)
ざわめきで遊ぶ/ 外の出来事を見て自分の本音を知る方法
用事のついでに、普段行きつけない町で、お昼ご飯を食べた。
その時、鶏肉のあぶり焼きみたいなものが食べたくなっていたので、(当然心の中で)鶏肉、鶏肉と唱えながら歩いていると、『ワンコイン500円ランチメニュー 鶏肉照り焼き定食』的なものがあったので、ああナイスタイミング、ジャストナウ!と思ってそのまますんなりと、サイゼリアに入った。
安いし駅前だということで、お昼の店内は満員だった。
学生さん、サラリーマン、近所の人、老夫婦、赤ちゃん連れのママ会。あらゆる年齢層のお客さんがいる。かなり広い店内なのだが、人がひしめいている。人が密集している。温かな料理も沢山動いているので、温泉のような湿度がある。少し息苦しい。
ちょっとたじろいだが、順番待ちの紙に名前を書いてみる。
続きを読む高知、不思議と体がほどけていく解放感 脱いでいく旅リベンジ【08】 日本一の清流・仁淀川カヌーキャンプ
高知に到着してすぐ、感じたのは、その空気の質の違いだった。
湿り気がある。あたたかい。その中にある、おおらかさ、ゆるさ、気楽さ、開かれた感じ。
街の中に、水が多い。
川が、街の中に豊かに流れていて、水田がたくさんある。
すぐそこは海。
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