アカシア食堂レモンの記2

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異国で夢を見たら、何かが解消された

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生まれて初めて、招待されるという形でインドへ行った。
招待も、インドも、どちらも初めてだ。

 

インドについては、不思議な思い入れがあった。
自分からインドへ行くことはないだろうと思っていたのだ。

 

ヨガをやってみたくて、いろんな体験教室に行ったけれども、どれも習うには至らなかった。


アーユルヴェーダを何度も友達に誘われたり、体質を見てもらったり、さらにはシロダーラ魅惑的と思っているにもかかわらず、アーユルヴェーダを受けるに至らなかった。

 

一時期、まわりに何人もヨガの先生の知り合いができ、ヨガには気安く行ける体制になったのに、でもヨガに行けなかった。

 

「バガヴァッド・ギーター(本)、譲りますよ」と言われても、遠慮した。


インド旅行をして人生が変わったという人の本も何冊か読んだ。

 

お金に詳しい仕事をしている知人に「インドパワーは今後ますます強くなりますから、インドにつながりができるのはラッキーですよ」とも言われていた。

 

何年も前から、こんなにも頻繁にインドへのいざないがあったにもかかわらず、そしてヨガへのほのかな憧れがあったにもかかわらず、深く踏み込めずに躊躇してしまうのは、

 

インドと聞いて瞬時に感じてしまう恐怖、拒絶感というのが、どうしてもぬぐえなかったからだ。

 

自分でも、それがなぜなのかは、わからなかった。

 

わからないのに、「インド、はぁ・・・、むぅ・・・なんだか苦しい」となぜだか思ってしまうのだった。

 

行ったことがないにもかかわらず、こう思うのはなんでだろうなと、20年ぐらい前から思っていた。

 

だから、最初にインドへご招待しますからぜひいらしてください、と言われたとき、大変に失礼だけれども、すぐに「やったー!」みたいな返答はできなかった。

 

しかし、この話を聞いた私は、すでに40代で、多少ふんべつがあった。

 

ああこういうのが、「行く流れ」というものなのだろう、と思った。

 

体も丈夫になり、会社員でもなくなった今。物事には大きなタイミングや流れがあり自分の思いとは別にそれは動いている、ということが受容できるようになった今。慎み深くも受けることもまた大事なことですよねと考えられるようになってきた今だからこそ、めぐってきた話なのかもしれない。

 

そもそも根拠なくインド苦手と思ってきたな失礼な私にインド行きとは、むしろ慈悲深いことだ。


人生って何があるかわからないものだ、仕事で海外など縁がないところで働いているにもかかわらず仕事で海外に行く、こんなことはめったに起こらないのだろうと思い、不可解なインド恐怖感は心の中央から端にそっと移動させ、ありがたくお話を受けることにした。

 

そしてネットで調べまくってビザをとり(英語が読めないので大変だった、インドビザ記事をUPしまくっている日本の方々にお礼を!)、インドへ向かった。

 

 

向かったのは、インドのアーメダバード(Ahmadabad)という一都市だ。インド八大都市のひとつだそうで、街にはガンジス川じゃない大きな川が流れていた。

 

到着は夜中もかなり遅くになり、予約してもらっていた、きれいで高そうなホテルにすぐに移動して、そのまま自力じゃ泊まれないようなキングサイズの大きなベッドの上で、眠った。

 

そうしたら、その晩、夢を見た。

 

細部までは覚えていないが、ある一族の何代にもわたる悲しい歴史、というような内容で、夜中に、悲しさと苦しさで胸が締めつけられて、目が覚めた。

 

しばらく、その悲しさでいっぱいになって、ベッドの上でじっとしていた。

 

そして、その悲しみに浸りながら、
「そういうことも、あったのかもしれないね、ああ悲しかった」

と、誰に言うでもなく、責めるでも否定するでもなく、ただ悲しみの痛さを感じる胸に手を当てながら、じっとしていた。

 

しばらくそうしていたら、また眠りに落ちた。

 

 

翌朝起きてからの、インドは、すばらしかった。

 

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道端には露店がたくさんあった

 

インドといえば、生水を飲んではいけない、生ものはたべちゃいけない、町は汚い、物乞いがすごく来る、などなど、よくないウワサばかりが私の中にはあった。


でも、この旅では、そんな思い込みは一掃された。

 

それは、今回同行してくださったのが、非常に敬虔深いジャイナ教の方々であり、またその方々と寺院を回ったり、道行くところで行われる奉仕が、旅の工程に自然に含まれていた、そのおかげだもあるのだろうと思う。

 

寺院の食事や、街で調理されたものや、露店の生ココナッツジュースもいただいたけれども、お腹も全く壊すことなく(ふだんお腹はよわいのだけれども)、


町はアジアのゆるさとインド独自の活気にあふれて、生活をしっかりと生きているよき面を見せてもらい、元気をもらった。

 

日本とはまったく土台の違うところで行われる宗教に触れて、日本にはない純粋な「信念」を体感させてもらえた。

 

信念があるということは、つまり、疑いや葛藤がないってことなんだけど、頭の中で疑いや葛藤でのない人たちが周りにいるってことで、空気がこんなにも静かで軽いものになるのか、と感じた。

 

自分の中も驚くほど静かだった。(日本にいると不安や葛藤やら対話ばかりで騒がしい)

 

個人的に海外旅行の経験は大変に数が少ないのだけれど、その少ない旅行人生の中でも最大というぐらい、今回の旅では私は守られていたことを感じたし、さらには、こんなに安全で安心な旅はしたことがなかった。

このめったにないような、私の思い込みをすべて払拭するような、すばらしすぎる旅になったのは、初日に夢で見た内容、そして悲しみを感じられたことにあるのかもしれない、と思った。関係ないようでいて、関係あるんじゃないかと思ったのだ。

 

誰の、いつの記憶なのか、わからない。でもそれはあまり問題ではない。インドにきてはじめて、その悲しみは、夢という形で登場することができた。

 

夢から覚めた時に思い出したのは、霊が見えてしまうがゆえに話しかけられてしまい、それをどうしたらいいのか日常レベルで考えてきた人が、「霊と対話して、共感したりその霊の気持ちを認めていくと霊が納得して帰ることがわかった」という話だった。

 

ただただ見えたものを否定しないで一緒にいて聞く。それはあらゆる思いを持ってしまったものに共通するコミュニケーション欲ということなのかもしれない。

 

そして、その夢を見ることで一緒に、私の中のインドに対する拒絶感、恐怖感も、不思議と消えた。

 

インドはすごく良い所だった。

日本より、うんと、息がしやすかった。