意識のなぞの片鱗にふれる
先日ね、踊りを見たんです。
昔から、思いのたけがそのまま発露されている状態を見るのがとても苦手でして、例えばNHKののど自慢で感極まっている人とか、道端でインタビューされて頑張って答えている一般の方とか。
その方達には何の悪気もないんですが、全開の思いみたいなのが出ているのを見ると、とにかく恥ずかしくて、恥ずかしくて、いてもたってもいられなくなるんですよね。
舞台の演劇やダンスも同じで、ほとんどの演目は、特に、見はじめの時は、目をそらしてしまうものが多いのですよね。
それでですね、先日みた踊りというのも、友人の知り合いが踊っているもので、ミュージカルみたいだったので、私は最初はずかしくなってしまって、正面から見られなかったのです。
が、そのダンサーの方が、途中から、ボールを持って、踊り出したんですよね。新体操に使うマリですね。
そうしたら、とたんに。その人の踊りに目がスーッと釘づけになったんです。
その時、踊り手さんの意識が、半分、ずーっとボールに向かっていたのがわかりました。先ほどまでは、観客かな?とにかく、ほかのどこかに向かってましたよ。
ボールに向かったとたんに、私は見られるようになったというか、感動すら起こりました。
すごく踊りの上手な体の美しい人で、ボールを持った途端に切なさみたいなのがふわーっと浮いてきて感動しました。
衝撃的な変化でした。
これ、この違いは何だろう?って、すごく、思いました。
まだ答えは出ませんけれど、表現についての、とても大切なことに、触れそうな気がするんです。
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以前にね、アメリカで、チャネリングという行為をする人に会って話したことがあったんです。
彼女は、人の意識について、色々と話してくれました。
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自分が相手をリーディングしようとするとき、リーディング相手は自分に意識を向ける。
すると、その意識が、リーディングの邪魔をするの。
リーディングの邪魔をしないためには、相手に編み物だとか、書き物だとか、そういうことをしてもらうといいのよ。
タロットとか、ほかの占術でもいいの。
何でもいいんですけど、私から意識をそらしてもらう必要があるんです。
じゃないと、相手の意識と混じって混乱しちゃうのよ。
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そういうお話でした。
これもなにか、表現ということと、関わっているような気もするんです。
どうかかわるかは、わからないのですが、ふと思い出しました。
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書くこととか、表現について、いろんなクライアントさんのいろんな文章を書くし読みるんです。
最近では特に、良い文章って、ないな、って思います。
良いとか悪いとか、正しいとか、間違ってるとか、深いとか、濃いとか、
そんなもん本当はないんじゃないかな、と思うようになりました。
だけれど、個人的な「読みやすさと、読みにくさ」が発生する、というのは常に起こっていて、これが何かを知りたいと思っていました。
勢いで書くと、感情だけが先走って、主語と述語を飛ばしてしまったり、文章が暑苦しくて、前のめりで恥ずかしくて後悔することもあるんですが、
でも自分だから結局読めてしまうので、他の人が読みやすい、のかどうかはわからない。
自分がどう思うのかというのをこえて、自分が書くものが水に近くなるといいなあと思っているんです。
水を飲むみたいに読める文章がいいな、というか。
で、その時に、ボールを持つ、みたいなことがあると、文章が読みやすくなるのではないか、と思って、はっとしたんですよね。
もしかしたら、ここにひとり名編集者がいれば、ボールになってもらうこともできるのかもしれないんですが、
できればいつも、自分でボールを持っていたい。
階層にすると
私→言葉→ボール→書く
だと思っているんです。ワンクッション。
まだうまくつかめないですが、ボールを持つ。忘れないうちに書いておこうと思いました。