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アカシア食堂 レモンの記

すべては居場所をめぐる旅の話 「私」とは居場所のこと だいたいいるのはあわいのただなか

音と空間が見えるという体験のこと

異界

最近音のことをずっと考えている(ということに友達の発言で気が付いた)。

 

とあるところで死にかけて、音が見えるという体験をした。目で見えたというよりも、体で見た。

 

空間は、液体の重さだった。人がいるとたぷたぷとゼリーが波打つように思い空間。人が話すとさらに重くなって息ができなくなった。

 

そこに、空気を通すように、声を放ったら、空間がひらけて、空気が入ってきた。

声によって場の重さは去り、少し空気が軽くなって私は息ができるようになった。

 

なんだ、場を変えたければ音を出せばいいのか。歌えばいいのか。

 

歌詞のある歌は必要ない。

ただ声が生まれる直前にある、「音の響きの部分」で歌うのだ。そのことが場を変える。場を開く。

 

 

そうこうしている間に、思考は、音と音霊、言霊、発音、日本語、などに流れついた。

 

昔、「言葉の生まれる前について」の話を聞いたことがあった。

「あー」と発音したくなる、その直前。その直前の感じを感じてみる事。

どういうときに、あ、というか。

どういうときに、さ、というか。

 

川の流れをよくきく。鳥の声をよくきく。言葉の出る直前の響きをよくきく。

 

日本語の、ひらがな、ひとつひとつには、ことだまが宿るという。

ことだまは、言霊と書く。

霊、とは魂というより、意識と考えるとわかりやすい。

音の響きに働いている「ある意識の範囲」がある。

あ、といったときに示される意味の範囲がある。ひらがな一音ずつにある。

霊がある、ということは、生きものだ、ということだ。

音は生き物。

確かに、そう見えた。

 

それは数年前に聞いたことだった。今になって思えば、それはカタカムナということに関係がある話であった。

 

というわけで、カタカムナを調べていった。

そしたら、ウタヒというものを見つけた。

 

ウタヒ、とは、祝詞みたいな感じのもの、といえばわかりやすいか。ひふみ祝詞のように、独特な配列の言葉を、歌い上げるようにしてよむ。

 

よむ、というより、ウタヒ、だから、うたっているのだよね。

ウタヒをする人は、音を歌っている響きを歌っている、と私は思った。

 

私が見たのも、音の響きだったのだなと思った。

 

カタカムナの祖平十字氏は楢崎氏にカタカムナの意味ではなくウタヒを伝えたという。ウタヒでしか伝わらないものを伝えたのならそれは同じ空間で聴くことでしかわからない。平氏のウタヒをきいてみたいと今思う。

 

 

音を考えると、同音で違う意味の言葉について、ダジャレのように考えてしまう。

 

「湧く」ものをそのまんま出しっぱなしにしておきたい

「枠」があると苦しくなって取り外したくなる

 

ワクということを思いついたら、同時に二つの湧くと枠が連想された。

 

湧くと枠は意味がうまく繋がらないが、何が共通しているから同じ音なのか。

 ゲームのように遊んでみる。

 

 

小学生の頃、合唱部だった。何年か練習して、ある日突然、抜けるような高音がぽーんと出るようになった。頭のつむじから抜けていくような音だった。体の中に響いて面白かった。しかし、音が他の人よりとびぬけすぎて、合唱にならないから、という理由で、先生に声を制された。

 

今はもう、その声は出ないが、かすかにあの響きを覚えている。

 

声量が増えたんじゃなかった。響き方の精度が上がったので、聴く人も振動が大きくなるというような声の出方だった。そこで声が出ると何より自分の脳が気持ちよかった。

 

 

一家で宇宙情報をチャネリングしていて、もはや高度で天才的すぎてその論理の読解に追いつけなくなってしまったやまーださんのブログ

山田貢司のどこに行くのか?バカボン一家

は、私は(意味が分からなくても)大好きなのだが、そのチャネリング情報の中に、音を使って脳の構造を変えていく、というようなものがあった。

 

これができると、脳の使い方が変わるから、物忘れしなくなったりするよ、と山田氏は言っていた。(2週間ぐらい練習してみたけれど、残念ながら頭の悪さはあまり変わらなかった。すっかり忘れてたけどまたやってみよう)

 

ドレミファソラシの音階とあいうえのの音と、倍音や角度なんかの関係性の図解と一覧表がブログのどこかにあった、ようにおもう。

 

だから音楽やる人は覚者が多い、といっていたようにも思う。

 

これで、脳の階層にひびきはじめて、脳が、松果体が、震え始めて、変わっていくのだろうか。

 

振るうと、ゴミは浮き出て、中にあるものは揃っていく。例えば大きな容器の中に入っているつまようじをシャカシャカ振ると、つまようじは揃う。

 

頭をシェイクするような大きな振動というよりも、多分、声ぐらいの微振動ぐらいがいいのかもしれない。

 

(書いて思ったが、揃うにはある程度の時間をかけてふるうのが必要だから、やっぱりもうちょっとふるいが必要だ)

 

そんなことを考えていたら、友人が、ボイスヒーリングをはじめた、と話し始めた。(これで冒頭の話に繋がった)

 

いるだけで周囲が癒えていくような雰囲気を持つこの友人が、ボイスヒーリングとは。さぞかし良い響きであろう、と思われた。

 

これは是非受けたいと思った。ヒーリングを受けたいって思ったのはとても久しぶりのことだ。

 

きっと音を見たからに違いなかった。

音は、あの重い液体空間の中で「希望」として映った。

暗闇の一筋の光みたいだった。

 

 

大きな声でうなっていても怪しまれないようなところに住んで、毎日、あー、とか、うーとか言っていたい、というのが最近の願いである。