アカシア食堂 レモンの記

すべては居場所をめぐる旅の話 「私」とは居場所のこと だいたいいるのはあわいのただなか

石牟礼道子さんの本を読む独特な経験

石牟礼さんの本を読む感覚、というのは、他の本とは全く違うものだ。

 

初めて石牟礼さん本を読んだ時、それまでの読書体験とは異なるので、これは一体なんだろう、と思った。


今から10年以上も前の事だ。

 

初めての本は「十六夜橋」という小説だった。図書館で、たまたま目について、借りた。薄い赤茶色の布張りの、箔押しの古めかしい装丁は私の最も好きな装丁スタイルの一つで自然に手に取った。いざよい、という言葉の響きの良さもあった。

 

 

そのように何気に手に取って、読み始めたら、前述の読書体験がやってきたのだった。

 

 

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石牟礼さんの本は、天草、水俣のあたりの方言で書かれている。独特のまろやかで、日本人の底に響いているような懐かしい響き。リズム。

 

 

(後に知ったことだが、厳密な方言というわけでもないらしく、石牟礼さんの小説の中だけにある独特の言い回しのような、そういうところもあるのだという)

 

 

人の思いと、そこにある情景と、細やかに丁寧に描かれている。日本語で書かれている。

 

 

小説である。

 

 

たしかに小説なんだけど、小説でもないようなのである。

 


小説を超えている。

 

 

日本語も、日本も、人の魂も、とても美しく、切ない。

 

 

と、書いてしまうとすごく薄くて陳腐になってもどかしいんだけど、その思いでずっと全身が浸されていく、というような感覚になる。一冊読んだ読後の感覚が長く続いた。

 

 

これほどまでに、日本語が読めて良かった、と思ったことはなかった。

 

 

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(外箱です)

 

 

 

それからしばらくして、苦海浄土を手に取った。

 

 

これは、おいそれと読み進めることができないという本だった。

 

人間そのものが書かれているようでいて、書かれているのはそこではない。心が書かれているのでもない。表す言葉が上手く見つからないが、強いて言うなら魂だろうか。

 

だからといって、この本の一部分を切り取ってここに掲載して紹介する、というのは、私には不可能だ。

 

読んでいると、ひたひたと、言葉以外のものが入って来る。通して読むほどに、入って来る。その入って来るものの量が圧倒的になったところで、私は読みすすめられなくなる。目が文字を追えなくなる。

 

 

書かれてあるものを通して、私はそれに直接つながり始める。

 

いま書いていて思ったのだけれど、入って来る、のではない。むしろ、抜け出る。引っ張って行かれる。自分が、異世界のものになる。

 


読んだ後、読む以前の自分に、戻ってこれたのかどうか、はなはだ心もとない。

 

 

そこにいたはずの、読んでいた自分は、そこあるのかも、心もとない。

 

 

例えば生まれる前の、魂とか祈りとか、そういう世界だった頃の自分になる。

 


そういう感覚の、異世界そのものになる。

 

 

石牟礼さんの書くものは鎮魂の文学、と言われるが、はたしてそうであろうかと私は思う。書かれたものの魂は、鎮められるというよりむしろ、躍動する。私の魂も躍動し、肉体を浸食する。

 

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これは、単純に、本を読む、という体験ではなかった。

 

 

例えば、普通に本を読むときのこと。本を読んでいる最中というのは、本の内容に没頭するから、集中するほど読んでいる私、というものはなくなる。 でも読み終えると、私がまた登場する。

 

 

心が震えたのは私の心、だし、知識が満たされたのは私の知識だし、感想を持つ私が明らかにそこに存在する。

 

でも、石牟礼さんの本は、そうではない。読んで私の魂が震えた、のではない。魂だった自分を思い出す、のでもない。

 

石牟礼さんの置いた言葉の向こうに存在する、この世とあの世の間のような世界。

 

それは魂のある層〈場所〉で

 

善なるものも、もののあわれも、同時存在する世界で、

 

読んでいると、私は私であることから解き放たれ、

 

その層になる。

 

読むと私は魂の側に行ってしまう。

 

 

魂からの目線になると、肉体を持っていることが、切なくなる。人間であることが、切なくなる。

 

アサジオリや、アリスベイリー、シュタイナーなどが魂と人格(パーソナリティ)の仕組みについて説いていることに、人間の中では魂の要望と、人格(パーソナリティ)・肉体の要望とが、相反して拮抗して成り立っているという。

 

肉体の欲望は、魂の求めるものとは、相反している。あまりに相反すると、それは病気として出るほどに、逆のベクトルがぶつかり合っている。

 

そのバランスを取るようにして人は生きる。

 

ただ人間は往々にして、人格・肉体に支配されているから、魂の声、要望を聴くことは、なかなかに、そして、大変に厳しいことがあるという。

 

その、肉体的に生きている人間から見上げるとある厳しくも厳格な魂から見た視線。

 


石牟礼さんの書く言葉を、言葉というより、奏でる音を介して、門として、私は魂の世界へと入る。

 

 

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もうどこで読んだのだったか思い出せないのだが、苦海浄土は、水俣病に遭遇してしまった人々に出向いて話しを聞いて書くというスタイルの本なので、インタビューしたと信じて疑わなかったのだが、じつはこの話は、インタビューは一切しておらず、石牟礼さんが魂で交流して見聞きする、ようにして書かれたのだという。

 

そうして一度書いてしばらくは、肉体は憔悴したようになるという。

 

これを読んだ時、驚くと同時に、ああやはり、と思った。

 

苦海浄土を読むと、登場人物、一人分の、その話を読むだけでも、何かその人の一生や、魂の思いが、次々と思いやられたり、涙がぼうぼうと流れたり、心臓の辺りが、痛くなったり広がったりと拡張と収縮が著しく、またそういうことが頻繁に起こった後、読み終わる時には肉体が希薄になっている感覚があるのである。

 

この本は電車や、東京の街中ではうまく読むことが、できなかった。

 

家の中や、風通しのいい場所や、木の下や、海の見える所なんか、そういう自然のある落ち着いた場所で読むほかに、読むことができなかった。

 

 

そういうことのすべてを、この本を書かれたところを読んで、納得した。

 

 

石牟礼さんの本を思うと、同時に、昔の可愛らしくも苦い経験を思い出す。

 

石牟礼道子さんの本好きな人の集まりに、行った事があった。

 

本の中身について、感想について、話し合える、と思って期待して行って、そんな事は起こらなかったという経験。

 

そもそも読書の経験は、人と共有する性質ものものじゃない。本の作りがそうなっていない。

 

読書とは著者と私との経験だし会話だ。そこにだれかを介在させる必要などなかった。どう読んでもいい。私のものとして私が大切にすればいい。誰とも似ていなくていい。と、今なら思う。

 

 

 

 

この会からしばらく後、私は徐々に文学や小説から遠ざかる生活をした。

 

 

忙しく社会活動をして、前のめりに経済について考えたり、自分の欲望を果たしたり抑えたりするのにたいそう忙しい日々を過ごした。

 

このあいだ、見事に、石牟礼さんの小説は読めなかった。

 

それだけじゃなく、ほかの小説も、特に、物語が、うまく読めなかった。

 

文学少女時代を過ごしたので、ビジネス物やHOWTO本を作っている自分自身に傷ついたりもした。


自分の思っていないことを言わなくちゃいけなくて、言う回数が増えるごとに、その苦しさが苦しくなくなっていった。

 

自分自身の哲学と真理からかけ離れていってるのかもしれないなとどこかで感じていた。

 

そうして実際今、遠くなったと感じることもある。

 

でもそれも良かったのかもしれない、とも思ってみたりする。

 

雑食でミーハーでおおよそどのジャンルの事も否定せずそのまま見られるようになった。

 

この年月は私にとって非常に大切で必要な年だったんだろう。

 

(私は私のために、人生に意味を紡ぎだす。それしか私を救う方法はない)

 

 

一度、自分の魂とか、自分が真実だし大切だと思っていることから、大きく離れて見失うこと。

 

生まれて来たからには、そのようにして、確かめたいことだってきっとある。

 

天邪鬼で好奇心の塊のような私の性格はきっと、そういう手法を取った。

 

まあかなり、遠回りだけれども。

 

そうして8年ぶりに苦海浄土を一節読んだ。
無作為のたったの数ページだった。

 

8年の間なんて、まるでなかったみたいに、
いや、8年前より、より深く、
私はこの本の中に、引かれて入った。

 

読んでるそばから、ボロボロボロ、と涙が出た。

 

私には石牟礼さんの小説と過ごした時間が、確かに合って

その時の体験はより鮮やかに、そこにちゃんと存在していた。


私の体は思い出した。

魂も体も、忘れる事なんてなかった。

 

私たちはいつだって、どの瞬間も、肉体そのものでもあるし、同時に魂そのものだ。


どんなに離れたと思っていてもなお、その中にいる。どんな時期の自分も結局嫌わなくていいし。どのぐらい遠いと思う道を行ってもいいのかもしれない。

 

自分が書くこととか、自分がやることとか、自分を見失うように思うことが、しょっちゅうある。

 

「どうして私は・・・」みたいな、この世で最も不要な質問を自分にしてしまうような
時がしょっちゅうある。


それでも石牟礼さんの小説の中には、そういうものを超えたすべてが描かれていて、ああそうだった、と思う。

 

生きているのは切ないことだけれども
それでもなお、生きることを選んでいますという世界のすべてが、いつもその本の中に生きている。

 

それを目の端に入れるために、

私の本棚には、苦海浄土がいつも目に見える所にある。

 

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(一時、持ち歩いていて、もうボロボロになってる文庫版)