定点観測空写真集 vol.10夏至―vol.11小暑
定点観測2回分、この間の雑記。
色々な事があっても、頭の中で何をどんなに強く思おうとも、事実としては何も起こらなくても、とにかく手を動かして言葉にしなければ何もないと同じである。
足を動かして口を動かして手で触れて見なければ現実は動かない。
頭の中のみに記憶されたと思っていた記憶は、さてもそのようには蓄積はされず、手のひらから零れ落ちる砂の如し。
毎日、空ばかりはちゃんと見ていたつもりだったが、いつの間にか、日付も写真も零れ落ちていて、刻んでいたはずの日にちさえ零れ落ちた。
こぼれ落ちた日は、見当たらない。
(この間、写真と日づけがどうしても合わないということが起こったのでした。600日を超えて毎日カウントしていたのになぜ?)
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こぼれ落ちた日は、できれば忙しかったころの私に差し出したい。
受け取ってもらえるだろうか。
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梅雨が明けているのかどうか、わからない様子が続いている。
世界と宇宙と自分と他人、植物と鉱物と土と水、いろいろなものの境界がゆらめいているような間だった。ぷかぷかと、たゆとうていた。
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崩壊しそうな境界線の奥へ潜って、その境界を捉えるための調査をしていた。
過去を整理整頓する、というのは大変に苦手な作業である。
しかし自分の過去を丁寧に整理整頓するほど、
自分だけに刻まれるリズムや法則が浮かび上がる。
それを知ると、色々なことがわかってくる。繋がって来る。
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これは、井戸を掘っている作業に似ている。
自分が生きて生活していくための、真水が出る小さな井戸を掘っていた。
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何度も見失うようにして、欲望と衝動に駆け抜けても
どんなにジタバタしても人のいう事を聞いても悔しい思いをしても
簡単に自分などはなくならない仕組みだ、ということに気が付いた。
むしろ、自分を探すようにしはじめると自分はみつからない。
自分は他人が見つけてくれるぐらいでいい。
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それでも探してみたいのが人間というものだけれど、
その時は茫々と探すのではなく、鋲で止めるように、認識を積み重ねていく。
認識を残していく。
目は前へ。心は肚へ。
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40歳を過ぎたあたりから、がぜん面白くなってくる仕組み。
色々なことを面白がれるように、五感をフルに使ってきて、いっぱい痛い思いをしてよかった。痛みは生きている証。
回遊魚は止まると死んじゃうね。
知っていても、何度も死んで何度も生まれている気がしている。
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7/25から、反転の兆し。やっと潮流が変わった。
みんな、おはよう。