アカシア食堂 レモンの記

すべては居場所をめぐる旅の話 「私」とは居場所のこと だいたいいるのはあわいのただなか

ざわめきで遊ぶ/ 外の出来事を見て自分の本音を知る方法

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用事のついでに、普段行きつけない町で、お昼ご飯を食べた。

その時、鶏肉のあぶり焼きみたいなものが食べたくなっていたので、(当然心の中で)鶏肉、鶏肉と唱えながら歩いていると、『ワンコイン500円ランチメニュー 鶏肉照り焼き定食』的なものがあったので、ああナイスタイミング、ジャストナウ!と思ってそのまますんなりと、サイゼリアに入った。

安いし駅前だということで、お昼の店内は満員だった。
学生さん、サラリーマン、近所の人、老夫婦、赤ちゃん連れのママ会。あらゆる年齢層のお客さんがいる。かなり広い店内なのだが、人がひしめいている。人が密集している。温かな料理も沢山動いているので、温泉のような湿度がある。少し息苦しい。

ちょっとたじろいだが、順番待ちの紙に名前を書いてみる。

 

店員さんは数人で、でもフル回転で走り回っている。片付けや、配膳、いろいろと追い付いていない。でも店員さんは腰は低く顔は笑顔で接客している。すごいもんだな、と思う。

奥に見える座席では、小さな男の子2人が、ソファの上で飛び回り窓のブラインドを上げたり下げたりして母親が怒鳴り散らして男の子が大泣きし、母親は疲労困憊、困り果てた顔をしている。

何か場の、言葉で形容しがたい空気感を、混雑を、男の子は見事に体現して発散しているように私には見えた。子供ってのは敏感だ。

だがそれをこの母親に伝えるには酷なような気がする。多分油に火を注ぐ。かといって一緒にご飯を食べましょう、というのも多分違うのかもしれない。

などとつらつらと観察している間に、私は席に通された。老夫婦のお隣だった。目を向けていたのとは違うエリアに通された。比較的ゆったりした雰囲気の席である。

私はまったく急いでいなかったので、大変お待たせいたしました、と頭を下げられたけれども、それは謝りすぎだなあと思い、いえいえ、と自分の所作をゆっくりと丁寧にして、笑ってみた。

このお姉さんは、忙しすぎて、サービス精神までもが前のめりに行き過ぎて要るように見えた。どこか、マッサージの施術に来るクライアントさんの感じに似ている。

だから、クライアントさんにするように、私は自分の所作のスピードをこのようにしてみた。

私が急いでもいなければ全く怒ってもいないという事が伝わったようで、そのお姉さんはほっとして、それから動きが幾分おちついてゆっくりになっていた。


落ち着きはさざ波のように伝播した。人間の体は本当に楽器のように、響きと瞬時に共鳴できる。共鳴するためには、同じ音、同じHzが必要だ。ドを音を出せば、遠くに離れたドの音が勝手に鳴る。お姉さんの中にドの音がある。落ち着きの音。だから、それが瞬時に共鳴することができた。

注文して、一通りスマホでメールをチェックしていると、料理がきたので、おもむろに食べ始めた。

そのタイミングと前後して、隣に20代はじめぐらいの男性が来た。注文してすぐイヤホンをはめ、左手は肘をついてスマホを持った。左手が私の方にぐっと寄ってきたので私は驚いて少しそちらを見たのだった。本人はまったく気が付かなかったのか、こちらを微動だに見なかった。

さらにかれはすぐに来たサラダを、手はそのままの姿勢で、頭だけ下げ、掻き込むように、吸うように、飲み込むように、すさまじい勢いで食べたのだった。

私は、このような食べ方も、食べる勢いも、見たことがなかった。圧倒される勢いだった。このような勢いで、近くでご飯を食べられた、という経験がなかった。大学の学食でだって、立ち食いそば屋でだってなかったように思う。見た事のない、ド級の勢いに、ここで出会ってしまったのである。

しかも、さらに凄いのは、スマホを持つ左手の動きが、変わらなかった事だ。

スマホに集中し、音楽を聴き、食べ物を飲む。五感のうち、三感を同時フル回転。それは見ている私にとってら強烈な違和感だった。食事をしているという行為から最も遠い食事方法にみえた。彼が食べているのか、食べ物のように見えなかった。そして一時も目を離さないスマホを凝視している姿勢は、何か私の中をざわつかせた。

私は正面を向き、それから自分のスマホを閉じた。私は私が食べているものも、食べ物ではないような気がしてしまった。

味を、集中して思い出そう、と思った。そういう思いに駆られた。自分が目の前にあるものに、集中して、これは私が食べたかったもの、食べたくて食べている、500円とは思えない、ちゃんと美味しいです、ということを、確かめるように、一口ずつ、もぎゅもぎゅと食べることにした。

隣の男性から意識を外し、顔を上げて食べてみたら、周りの景色が良く見えた。

一人で来ているお客さんは、ほとんど全員、片手にスマホを持ちながら画面を凝視している。顎が前に突き出ている。
男子学生たちは大きな声で話している。器用に、かなりのスピードで食べている。
2人組&2娘のママ友達のランチ会みたいな会合は2つ隣のテーブルで、甲高い声で、何やらお互いを必死に褒め合っている。
奥のテーブルで、私とよく目が合ったのは10カ月ぐらいの赤ちゃんで、おばあちゃんとママが機嫌が良いので、赤ちゃんも終始笑いながら、周りを見て笑ってあやされている。
70代ぐらいのおばあちゃんグループ3名は料理は見ずにひたすら顔を上げて話し込んでいる。

色んな人がいて、色んな食べ方をしている。
ただ、みな、食事以外の何かに集中している。

例の隣の男性が頼んだメインの食事が来た。来たのはメインディッシュとご飯なのだが、サラダと同じように、飲むような勢いで食べはじめる。

私の視界に入る、左手のスマホの上の親指は、相変わらずずっと上下に動いている。でも、食べ物をすすっている音もする。何と器用なんだ。

周りの人のどの人より、この隣の人に意識を向けた時、私の体はざわざわとした。
食べることから、私が乖離していく。落ち着かない。
彼の波長は強い。微塵も揺らがない。

私は落ち着かなくなって、自分が食べ終わってすぐに、店を出た。

人間の体は本当に楽器のように、響きと瞬時に共鳴できる。
スマホを見ながらかっこむようにして食べた彼と、同じ響きは、私の中にある。
ざわめきは、共鳴の印。

彼はシとレとミという不協和音を、ホォルテシモで高速連打した。そしたら、私のも鳴った。

ああそうだ、私だってこのように、普段食べている。
普段、食事以外のことをしなら、食事を取っている。

それって、外から見ると、こういう「調べ」ってこと。彼の食べ方は、私の中の何かと共鳴した。私が持っていたものであった。

最近、沿う、とか、一緒にいる、ということについて考えている。

心理学や、施術の手法、そして「いるだけで癒されるー」という感じがする人が持つ人の共通点などについて、仕事でもプライベートでも取材したり考えたりしている。

私自身を振り返ると、私は私と一緒にいない、すぐに離れてしまうことが多い。自分の事がよくわからない。自分の事から目をそらす。自分の指針がぐらつく。自分の気持ちを押し殺す。なかった事のように目をそむけて、場を取り繕う。相手に褒められたい。外から評価してほしい。ざっと挙げると、こういうことが関連している。

だからこの問題が気になっている。

 

隣の男性を見たときも、周りを見渡した時も、いずれからも私は『おいしいご飯はそこにあるんだけど、誰もご飯の方を見ていない』という意味を勝手に読み込んだ。

感想なんていくらでもあるはずである。皆さん楽しそうに話してていいな、とも思えるし、混んでいる店は活気がいいとか、何でもいいはずなのに、ご飯を見ていない、事に反応した。

そして、ご飯が可愛そうというか、寂しそうだな、と思った。せっかく、美味しく出て来たのにな。無視されてる、と思った。

 これが、乖離された自分の声であるのだろうと思う。

食事に転写して、自分の事を見る。私が他人について語ることは、自分自身に語っていることと同じことだ。どの批判も、怒りも、自分の中からの声、という部分があると思う。

 普段食べつけないところで、普段一緒に会わないような人たちと合うのは、必要だ。五感が刺激される事も必要だ。

引きこもってひとりで食べていると気がつかない。内側くるざわめきに触れる。それはその時不快だけれども、自分のおヘソの匂いを嗅ぐみたいに、本能的に魅惑的な行為でもある気がする。