アカシア食堂 レモンの記

すべては居場所をめぐる旅の話 「私」とは居場所のこと だいたいいるのはあわいのただなか

ミューズを持つ

ひそやかに続いている連載:兆しのストーリーとして昨日、初めての講談を聴きにいった。BAR BOSSA で神田松之丞さんの独演会。凄い熱量と圧倒。あーすごいもの見た、ありえない至近距離で。とまあ、その話は書き溜めている兆しへゆずるとして、たっての願いで同行してもらった漫画家の友人と一緒に向かう。

 

物を作ることを話せる数少ない友達で作っているもののジャンルは違えども、作る、という事に向かっている共通性、彼女の冷静かつストイックな視点は、私を開く。

 

彼女の、聴いてほしいポイントを的確について押し開き、見事な引き出し方で吸収するという聞き方に、魔法にかけられたように、あるいは、何かのツボを押されたように、私はどんどんと話していく。

 

最近本を作りこんでいるという大量のアウトプット時期で、他に書いたり話したりほとんどしていなく、したいとも思わなかったので、自分がまさかこんなにも饒舌に話すとは思っていなかったために自分が一番驚いているという始末。

 

滔々と口から言葉が出て、それを斜め上から物見遊山のように見物する自分を感じつつ、野口晴哉氏の野口整体でいうところの活元運動のような自動運動が起こり続ける。

 

これは明らかに、私だけが話している時には起こる現象ではなく、双方向に気が循環し、力まずにも的確に聴き手がいい加減に聴いてくれるという循環が起きない限りは起こり得ない現象。聴くというのも相性であり技術でもあり、あり方の反映。

 

私の話の止まらないのを察して、時間を長くとって聞いてくれた友人の配慮に甘えて存分に話す。

帰りは思いもかけずに夜中となったけれども、私の体も心すっきりと軽く、肌に当たる夜風や、路傍に咲いている花の匂いが、ようやく体に入ってくるように感知することができて、ひょいとシャッターを押していた。気が付いたら、写真を撮って作っていくときのあの呼吸とリズムが戻っていた。

 

彼女はミューズだなと思った。思い出した作り手のミューズの話。

昔、詩人やら画家などの芸術家の伝記を読むと、そこには必ず、創作を刺激する存在がある。創造の女神みたいだから、ミューズ。どんな形でもいいのだけれど、会って刺激を受けて作品が生まれる、その刺激となる人物。ココシャネルも色んな人のミューズだったし、各詩人もそれぞれにライバルやらミューズやらを持っていた。ミューズもまた作り手。存在が創造。

 

話すことなど何もないと思っている時に、思いもかけない方向から救われるようにしてミューズと夜の会合。たどってみれば、講談の神田さんをよんだBARのご主人もまた書き手、神田さんの講談もまた圧倒的作品、皆作り手。そこから影響ははじまっている。

 

ご主人林さんはリズムと流れと空間のある文を紡ぐ書き手。圧倒的な神田さんの講談は歌とリズムと躍動そのもの。作り手の呼吸に触れると創作の呼吸を取り戻す。私は止めていた息に気が付いて呼吸を取り戻す。流れには生で触れる。体は勝手に振動を取り込む。同じ場の息を吸い同じ音を聴く。作り手は作り手のミューズ。

 

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