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アカシア食堂 レモンの記

すべては居場所をめぐる旅の話 「私」とは居場所のこと だいたいいるのはあわいのただなか

本当に美味しいものは細胞が沸き立つ お味噌汁に感涙しながら微生物について考察したこと

本当に美味しいものは、口に入れるとすぐさま体にしみこむ。細胞ひとつひとつが目が覚めるようにびっくりする。

今日飲んだお味噌汁でそんな感覚になった。


千駄ヶ谷の、家庭料理まつ

retty.me


ここで今日、てこね寿司のランチを食べた。


もうメニューはこれ1品しかない時間だった。通りがかって、なんだか惹かれてお店に入ってしまった。頭が、というより、体が入っていった。

 


私はここの所原稿書きに没頭していた。家で一人でこもって書く。こもっている間、私は自分で料理を作る。3食ほとんど作る。自分の作った料理は、体によくなじんでいる味だ。それなりに美味しいと思って違和感なく食べている。だが、ひとりで、自分の作った料理を食べることを続けると、体は確実にそれを拒否する、という感覚が来る、それを私は最近知るようになった。

 

まつ家庭料理店で出てきたのは、なめこのお味噌汁と、まぐろの漬けが乗ったてこね寿司だった。で、なめこのお味噌汁を一口、飲んだ瞬間に、細胞がぷちぷちぷちぷちぷち、とひとつずつ起き上がっていく感覚を覚えた。
おいしい。
薄味の、出汁のしっかりときいたお味噌汁には、なめこのほかにも野菜と刻み揚げが入っていた。

その前日、実は私もなめこの味噌汁を作っていた。自分のお味噌汁は慣れていてそれなりに美味しいと思っていた。だから、まつ家庭料理店で出されたなめこ味噌汁のおいしさはより一層際立った。

自分が、塩気が強い出汁の取りが不十分な味噌汁だった、とわかった。何か原稿にかまけておろそかになっている味。心がここにない人が作った、少しずれた味。別段それを反省するつもりはないんだ、ただ、あ、と思った。私、ずれてた、と。
そして、それがわかっただけではなかった。

(脳みそが一気に、他者と情報を受け入れるモードに切り替わったぐらいのいい味だったのだ)

 

私は人と接触を心、いや、体の底から求めている、と思った。
だから体が勝手にこの店に入っていったのだ。

 

ひとがひとりでずっと自分で料理を作り、それだけを食べて寝て起きてを繰り返すことができない、という理由は、微生物のせいだ、と思う。
自分の手には、自分の常在菌がついている、という。その人独自の配合による菌。同様に家にも独自の配合で菌がある。だから味噌やぬか漬けを作るとき、作り主と、その家独自の菌が入り込むことで、その家の味になる。

人が一人で生きていられず、人との接触やパートナーを欲する一つに、この菌を取り入れたいという体の欲求があるのではないか、と私は思っている。相性のいい人は、微生物レベルが相性がいい。菌の相性がいい。だから恋人のキスは美味しい。恋人が恋人のうちはいい匂いだと思う。美味しいものは、体が欲しているということだ。
恋人だけではなく、家族も、友達も、一緒にご飯を食べたり、話したり、そういうことで菌を交配している。

 

私はマッサージ師だったが、きっと菌の相性が良い人が私の常連客だったのだろうと思う。マッサージによるオイルの経皮吸収率が何パーセントだったか忘れたけれど、確実に吸収する。赤ちゃんも触れられないと死んでしまうのは外国の孤児院の調査からわかっているが、それは愛情不足、エネルギー不足、といわれているのだが、それはイコール微生物レベルの不足なのでもあると私は感じている。

 

で、私は今日、歩くのも久しぶりなほど久しぶりに電車で外出して、頭は数日の一人での考え過ぎと暴走で朦朧としていた。そんなんだったから歩いてしばらくして空腹だということに気が付いた。場所は北参道駅を降りたあたりで、土地勘には疎い場所、何軒かお店を覗きながら歩いたのだがハイソやおしゃれ感はことごとく体が拒否するために、そしてエスニックだけは食べたくないという気分だったために入る店がなくさまようように歩いていた。

 

そしてまつ家庭料理店の前に来たとき、おしゃれ系のお店がまえなのに、お店なのかに動くご夫婦らしき人が老舗の人っぽい気配でお客さんは女性の人で小さな店内はちょうど満席ぎりぎりな感じで、お店の女性たちが寛いでいる感じに体が反応して、すーっと入ることにした。頭は寿司な気分ではなかったが、それでも体は決めた、とばかりにすっと店内に入っていった。

 

これは、菌に呼ばれたのだとお味噌汁を飲んだ時に理解した。

お店を切り盛りしているご夫婦とどうやら大変仲の良いらしい方が隣に座っていて、そのやりとりは木皿泉ワールド感満載、つまりきどったところがなくて、家族同士がやりとりしているものの、どこか職人的気質もぴりりとあるような、でも空気はとても和やかでもあるというような、そういうこじんまりとした店内とご夫婦ででも作る料理には誇りと適切なエネルギーがちゃんと入っているようなそういう料理。

 

てこね寿司も、体がほっとしてゆるんでいく味。ちょうどいい量。

 

久しぶりに人の手で作られたものを食べた私の体は、それをどれだけ欲していたのか、と言わんばかりに細胞が飛び跳ねて、喜んでいた。
あまりのおいしさに、姿勢がぴんと伸び、胸がばっとひらいて、涙がじわーっとにじみつつ、結果じーーーーっとお味噌汁をガン見していただけだったが、実はだまったまま感動していたのだった。それからものすごい集中度で、私は一口一口、すべてを食べた。

 

お勘定の時、ありがとうございます、また寄ってくださいと、おかみさんがギュッと笑ったいい笑顔で言ってくれて、私はうわーっと思い、この一連の感動をどれだけでも伝えたかったのだが、出てきた言葉はようやく、おいしかったですー!、という一言だけだった。しかも、しばらく佇んでから後、やっと出た一言だった。それでもまあいぶかしむでもなく、更ににっこり笑って送り出してくれたご夫婦だった。

 

店内は、常にちょうどいい人が入ってきていた。ずっと定員ちょうど入る、という満員具合で、神の采配みたいだった。きっとそれも菌が決めている。(私は最近エネルギーとは微生物とか菌とニアリ―イコールなのではないかと思ってもいる)新しいお客さんが来ても、違和感なく、お客さんもすっと収まる。

入ってきたお客さんにはおかみさんが一言、「もうね、今日はてこね寿司しかないんですよ」というと、どの年齢層の人も、はーい、とだけ言ってすっと座っている。誰が来ても焦ることなく、同じ調子で、一言、そしてお店の中はすっと落ち着く。お客さんのお店へのなじみ方は、20代でも60代でもどの年齢層も同じ。すっと座っている。私はそれにも驚いていた。場が波立たない。渋谷とか新宿とも他の町とも違う。北参道なんて都心のど真ん中なのに。そう思いながら私だってなじんでいる。私など、てこね寿司しかないよ、とも話しかけられず、他の人に言って居るのを私がだまって聞いて、それでも座ることを選択したのを見て、この子は了承した、と見て取られていた、というありさまだ。空気だけでそれがわかった。その呼吸のやりとりだけで、私はお店に受け入れられた感、お店に同調した感がものすごくあった。

 

同調していると、カメラを出すのも、何をするのも、食べること以外のすべてを忘れる。おかげで写真がない。まあでもそれが食べておいしいということの本来の姿なのかもしれない。


お味噌汁と、てこね寿司は、適量、だった。一粒残らず、一滴残らず、綺麗に食べた。私にとっては珍しいことだ。それだけ、素材も料理も美味しい、ことの上に、個々のお店のご夫婦の菌と、このお店と料理と準備にかけている積み上げてきた清清しいエネルギーとがすごかった、と思う。そのエネルギーを分けてもらったので、私はたったその量で、めずらしく間食もいらず、次の食事までずいぶんと長い間持った。

 

美味しいものを食べると、こうなる。
ああ、いいものを食べた。
ご褒美みたいなおいしさだった。

 

このぐらいの感想を、美味しかったです、の前に言いたかったのよねホントはね。でも一言じゃ無理だったね。原稿明けの世離れした本当に独特の体感覚の時に行った。だからこんなに感受した。菌が渇望してたんだ。

 

細胞が目覚めるほど、美味しかったです、ごちそうさまでした。また行きます。