アカシア食堂レモンの記2

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くちなしの花の香を追い続けるの記

 

この世で最も好きな香りは何?と聞かれたら、

雨上がりの中に香るくちなしの花の匂い、と答える。

 

「最も」なんて言い切ってしまうには、

カヌーで釧路川の上にいる間ずっと香っていた、あの何とも言えない土と木々の甘い香りや、

お腹が空いた夕食時、街角から不意に漂うしょうがやきの匂い、

辺り一面、見渡す限り真っ白になった田んぼの上でかぐ雪の匂い、

海の近くでする潮の香、


この世には、全身が持っていかれてしまうほどいい香りってたくさんあるのだけれど

それでも全身のが反応するのはクチナシの匂いだ。

 

一瞬にして、良い気持ちになる。あの優しい甘さ。自分がどんな状態の時でも、いったん嗅ぐと、感情ごと変わるほど。

 

クチナシの咲く6月は、街のあちこちで、思わぬところから風の中に混じって、ご褒美みたいにこの甘い香りがふわっと来るから、歩くのが本当に嬉しくなる。

 

一年中この香りが嗅げたら。


さらに、この香りが自分の体から立ち上ったら。


それはもう本当に、本当に幸せだなっていうのは、ずっと抱いている、私のひそやかな願望だ。

 

これさえあったなら復活できるアイテムって何ですか?


ドラクエ復活の呪文とか、悟空たちが食べてるセンズみたいな復活のアイテム。

 

私は、空を見る、そして、くちなしの花の香をかぐ。この二つだな。

 

 

これは、幻の6月のクチナシの香水を、RPGの主人公のように探し続ける人の書いた、クチナシ偏愛記である。

 

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定点観測空写真集vol.12 大暑

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私信

暑さは本当にやってくるのかしら、と思っていた7月の終わりがあった。しかし今年も猛暑はちゃんとやってきた。いつも熱くなってからようやく思い出す。熱さは体をじわじわとむしばむということ。外に出た後、いつもうっすらと頭が痛くなっている。散歩を日課にしていて、最近は熱いので夜に歩くが、夜になっても冷めない熱が、東京にはこもっている。蒸す、というのにプラスして、帯びている何かの熱がある。

 

その熱を外に出すのではななくて、内側に向けるような時期が続いている。
2016年の大暑。こんこんと籠る。こもることが、この上なく快適で楽しい。

 

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石牟礼道子さんの本を読む独特な経験

石牟礼さんの本を読む感覚、というのは、他の本とは全く違うものだ。

 

初めて石牟礼さん本を読んだ時、それまでの読書体験とは異なるので、これは一体なんだろう、と思った。


今から10年以上も前の事だ。

 

初めての本は「十六夜橋」という小説だった。図書館で、たまたま目について、借りた。薄い赤茶色の布張りの、箔押しの古めかしい装丁は私の最も好きな装丁スタイルの一つで自然に手に取った。いざよい、という言葉の響きの良さもあった。

 

 

そのように何気に手に取って、読み始めたら、前述の読書体験がやってきたのだった。

 

 

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石牟礼さんの本は、天草、水俣のあたりの方言で書かれている。独特のまろやかで、日本人の底に響いているような懐かしい響き。リズム。

 

 

(後に知ったことだが、厳密な方言というわけでもないらしく、石牟礼さんの小説の中だけにある独特の言い回しのような、そういうところもあるのだという)

 

 

人の思いと、そこにある情景と、細やかに丁寧に描かれている。日本語で書かれている。

 

 

小説である。

 

 

たしかに小説なんだけど、小説でもないようなのである。

 


小説を超えている。

 

 

日本語も、日本も、人の魂も、とても美しく、切ない。

 

 

と、書いてしまうとすごく薄くて陳腐になってもどかしいんだけど、その思いでずっと全身が浸されていく、というような感覚になる。一冊読んだ読後の感覚が長く続いた。

 

 

これほどまでに、日本語が読めて良かった、と思ったことはなかった。

 

 

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(外箱です)

 

 

 

それからしばらくして、苦海浄土を手に取った。

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定点観測空写真集 vol.10夏至―vol.11小暑

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定点観測2回分、この間の雑記。

色々な事があっても、頭の中で何をどんなに強く思おうとも、事実としては何も起こらなくても、とにかく手を動かして言葉にしなければ何もないと同じである。

足を動かして口を動かして手で触れて見なければ現実は動かない。

頭の中のみに記憶されたと思っていた記憶は、さてもそのようには蓄積はされず、手のひらから零れ落ちる砂の如し。

毎日、空ばかりはちゃんと見ていたつもりだったが、いつの間にか、日付も写真も零れ落ちていて、刻んでいたはずの日にちさえ零れ落ちた。

こぼれ落ちた日は、見当たらない。

(この間、写真と日づけがどうしても合わないということが起こったのでした。600日を超えて毎日カウントしていたのになぜ?)

こぼれ落ちた日は、できれば忙しかったころの私に差し出したい。

受け取ってもらえるだろうか。

夏至、から、梅雨が明けて小暑。という約1か月。

梅雨が明けているのかどうか、わからない様子が続いている。

世界と宇宙と自分と他人、植物と鉱物と土と水、いろいろなものの境界がゆらめいているような間だった。ぷかぷかと、たゆとうていた。

崩壊しそうな境界線の奥へ潜って、その境界を捉えるための調査をしていた。

過去を整理整頓する、というのは大変に苦手な作業である。

しかし自分の過去を丁寧に整理整頓するほど、

自分だけに刻まれるリズムや法則が浮かび上がる。

それを知ると、色々なことがわかってくる。繋がって来る。

これは、井戸を掘っている作業に似ている。

自分が生きて生活していくための、真水が出る小さな井戸を掘っていた。

何度も見失うようにして、欲望と衝動に駆け抜けても

どんなにジタバタしても人のいう事を聞いても悔しい思いをしても

簡単に自分などはなくならない仕組みだ、ということに気が付いた。

むしろ、自分を探すようにしはじめると自分はみつからない。

自分は他人が見つけてくれるぐらいでいい。

それでも探してみたいのが人間というものだけれど、

その時は茫々と探すのではなく、鋲で止めるように、認識を積み重ねていく。

認識を残していく。

目は前へ。心は肚へ。

40歳を過ぎたあたりから、がぜん面白くなってくる仕組み。

色々なことを面白がれるように、五感をフルに使ってきて、いっぱい痛い思いをしてよかった。痛みは生きている証。

回遊魚は止まると死んじゃうね。

知っていても、何度も死んで何度も生まれている気がしている。

7/25から、反転の兆し。やっと潮流が変わった。

みんな、おはよう。